1高千穂神社
約1900年前の垂仁天皇時代に創建されました。高千穂郷八十八社の総社で、神社本殿と所蔵品の鉄造狛犬一対は国の重要文化財に指定されています。
主祭神は高千穂皇神と十社大明神で、特に農産業・厄祓・縁結びの神をして広く信仰を集めています。高千穂皇神は日向三代と配偶神の総称です。十社大明神は三毛入野命をはじめとする10柱を祀っています。
2槵觸神社・槵觸の峯
天孫降臨の地として伝えられる槵觸の峯にある槵觸神社です。
古事記の一文に「筑紫日向高千穂之久士布流多気に天り坐しき」と書かれており、古くは「槵觸の峯」を御神体としてお祀りしていましたが、元禄7年(1694年)社殿を建立しました。
3天岩戸神社
天照皇大神が御隠れになられた天岩戸を御神体としてお祀りしている、古事記・日本書紀に記される天岩戸神話を伝える神社。
古事記・日本書紀には天照大神(アマテラスオオミカミ)は弟の素戔嗚命(スサノオノミコト)の乱暴に怒り、天岩戸に籠もられた事が記してあり、その天岩戸を祀る神社と伝えられる。
御神体である「天岩戸」は西本宮から拝観することができます。(社務所にて受付必要)。
4二上神社
日本書紀・日向風土記に記されている天孫降臨の山で男岳・女岳があり、天上界で天の浮き橋に立ち、日本列島と多くの自然の神様をお産みになった伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀る神社。
男岳、女岳の二つが岳が一つになっていることから「二上山」と呼ばれる山にある神社で高千穂町と五ヶ瀬町にまたがる山です。
「日向風土記」により天孫降臨の峯として伝えられる二上山の中腹にある神社で、898年(昌泰元)現在地に社殿が建立され、1511年(永正8)三田井右京大夫右武が再建し、1814年(文化11)炎上したため、また再建したものと伝えられています。
5下野八幡大神社
1192(建久3)年、岩戸山裏村(今の大字岩戸)二ッ嶽にお祀りされていた「正八幡」を大神惟元公がこの地に移し、高千穂太郎政信公の時代に境内を整え、社殿を建立と記されている。
境内のケヤキ・イチョウ(国指定天然記念物)、参道の有馬杉、入り口の逆杉など巨木・老木が立ち並ぶ神社。
6荒立神社
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神の命を受けてこの国に降臨される途中で天孫一行を道案内をされた猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)が結婚して住まわれた地と伝えられ、切り出したばかりの荒木を利用して急いで宮居を造ったため、荒立宮と名付けられたといわれています。
このような言い伝えから縁結びに、ご利益があるとされています。
7石神神社
674年(延宝2)古記録には牛神大明神(ウシガミダイミョウジン)とあり、十社大明神(現高千穂神社)の使牛をお祀りしたのが創建のはじまり。
8高天原遥拝所・高千穂碑
くしふる神社の南に連なる小高い丘で、天孫降臨をした神々がこの丘に立って高天原を遥拝したところと伝えられる。
9四皇子峰
神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある。彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の御子鵜鵝草葦不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は玉依姫(タマヨリヒメ)と結婚されて、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)を含めた四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は後に日向から大和に入られ、神武天皇となられる。
10天真名井
天孫降臨の時、この地に水がなかったため、天村雲命(アメノムラクモノミコト)が再び天上に上がられ、水種を移されたと伝えられる。けやきの老木の根本に今も天然水が湧き出ている。この地を訪れた北原白秋は、晩年の心情と神代川・天真名井の様子を歌に表し、高千穂峡にその短歌と長歌を刻んだ碑文が建立されている。
11吾平山稜
日本書紀一書(第四)に「鵜鵝草葺不合尊は四皇子をお生みになった後、西洲の宮でおかくれになった。それで日向の吾平山稜に葬った。」とあります。古来より御陵として祀られており、遥拝所もあります。
12逢初川
天孫瓊々杵尊と木花開耶姫が逢われた所と伝えられ、三田井の地名の起源である三井の一つです。
13鬼八塚
高千穂に伝わる伝説「鬼八伝説」で神代のころに、二上山にいた鬼八という鬼が山をおり、祖母岳明神の娘 鵜之目姫(ウノメヒメ)を奪いあららぎの里の鬼ヶ窟に隠していた。ある時、御塩井を歩いていた三毛入野命(ミケイリノミコト)が、姫と出会い、姫の願いにより鬼八を退治したところ、一夜にして息を吹き返したため、今度は胴・手足・首とバラバラに3ヶ所に分け埋葬したと伝えられています。
14秋元神社
建磐龍命(たていわたつのみこと)が諸塚大白山中腹に創建し、1683年現在地に創立したと伝えられる。1873年(明治6)に「秋元太子大明神」を「秋元神社」と改称。春は野の草花が、秋は御神木の銀杏が境内を彩る。また、神社境内には、秋元の山水が流れ落ち御神水として祀られている。
15高千穂峡
高千穂峡は、その昔阿蘇火山活動の噴出した火砕流が、五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、 急激に冷却されたために柱状節理のすばらしい懸崖となった渓谷。
この高千穂峡は、1934年(昭和9)11月10日名勝・天然記念物に指定されています。
付近には日本の滝100選にも選ばれた真名井の滝、槍飛橋などがあります。
16陣内遺跡
県内唯一の土偶・石棒をはじめ、縄文時代後・晩期を中心とした多量の土器が出土している縄文時代の代表的な遺跡で、昭和51年に県の史跡に指定されました。陣内遺跡の特徴は多量かつ厚い土器の堆積であり、その状態が観察できるよう、土層の一部を剥ぎ取り、現地展示しています。(出土品はコミュニティセンター歴史民俗資料館に展示)
17国見ケ丘
標高513mの国見ヶ丘は、雲海の名所として有名です。
雲海の見頃は秋の早朝で、快晴無風の冷え込んだ日に見られます。
霧が高千穂盆地や、とりまく山々を覆い隠し、まるで墨絵のような世界を演出します。
また民謡「正調刈干切唄」の発祥地でもあり、阿蘇の五岳や祖母連山など、大パノラマが楽しめます。 毎年10月の第1土・日に正調刈干切唄全国大会が開催され自慢ののどを披露しています。
18高千穂太郎の墓
高千穂古今治乱記によれば、高千穂の郡主は三毛入野美命の子孫が代々相継ぎ、50余代家系相続していたのが、6代目に男子なく、平安末期に豊後の領主大神大太帷基の一男を貰い受け、嫡男太郎政次として家系相続したと伝えられています。
太郎政次は地名の高千穂を苗字とし、その後高千穂氏は三田井氏とも名乗り、安土桃山時代まで高千穂庄の領主として君臨しました。
墓石には「捐館松翁永仙大禅定門神議」と刻しています。
19八大龍王水神社
八大龍王は、観世音菩薩の守り神とされ、水神様として崇拝されている。境内にはえのきの老木があり、ツルが複雑に絡み合う様は、八大龍王の雰囲気をかもし出している。
近年は、岩戸八大龍王の降臨社として全国から信者が訪れている。参道には元読売巨人軍監督川上哲治氏と藤田元司氏寄贈の灯篭がある。
20龍泉寺地蔵堂
開山は仁徳天皇82代後鳥羽上皇の第三皇子と伝えられ、本寺格の命刹であったといわれています。三度の大火にあっていますが、御本尊(釈迦如来)・地蔵菩薩・十一面観音像は火難を逃れています。特に地蔵菩薩坐像は桧材による一木調成像で、平安末期作の全国でも珍しい巨像です。火伏せ地蔵として尊信が厚く、旧暦1月24日の例祭には参詣者が後を絶ちません。
21常光寺の滝
標高1757mの祖母山から湧出する自然水がつくりだす荘厳な滝で落差37m。寺の住職がこの滝の水を飲んで、大変長生きされたことから「長寿の滝」「白糸の滝」とも言われています。流れ落ちる水と岩肌の色、そして紅葉との相対的な景観は絶景です。
22龍ケ岩の滝・四季見原
上野川の上流、親父山林道沿いに高さ50mの龍が岩の滝があります。自然造形の素晴らしさから、特に紅葉の時期は多くのハイカーでにぎわいます。
上流にはモミ・ツガ等の大木が茂る原生林があり、標高1200mの四季見原は眺望に優れ、キャンプ場、パラグライダーのフライトエリアも完備しています。
23官軍墓地
西郷隆盛が高千穂に現れたのは明治10年8月21日。可愛岳での戦いに敗れた薩軍の総勢はこの時2,000人と記録にある。三田井病院で亡くなった官軍の陸軍兵士39名のほか、軍夫7名が供養されています。
24浅ケ部八十八ケ所霊場
店舗6年、里の有志が四国八十八か所霊場の御朱印をいただくとともに、土をもらい受け、八十八鉢の石仏を四国と同じ配置で山里に安置し、開眼、開場しています。このほかにも庚申塚等の野仏が点在し、歴史に彩られた生活信仰の息吹と田園風景、見渡す山並みは心の旅を満喫させます。
25天安河原
天岩戸神社西本宮から岩戸川に沿って徒歩で約10分、天照皇大神が岩戸隠れのため天地暗黒となり、諸神がこの河原に集まり神議されたと伝えられる大洞窟(奥行き25m、間口30m)があり、別名「仰慕ヶ窟」とも呼ばれている。